夏目漱石「文鳥」
門下生の三重吉が、漱石に文鳥を飼うよう勧める。金を渡して、籠と一緒に買ってきてもらい、飼い方を聞くとどうも大変そうだ。千代千代(チヨチヨ)と鳴いて可愛いので、水と餌を毎日取り替えてやるが、段々と世話を怠って、下女に任せてしまう。ふと気づいて籠を覗くと、文鳥は底で冷たくなっている。
生き物を飼ったことのある人なら誰でも経験するようなことだ。特に物珍しい出来事は書かれていない。ただ、やはり表現力がすごい。文鳥の死に気付いた漱石は、下女を怒鳴りつけ、三重吉にこう手紙を書く。
『「家人(うちのもの)が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠に入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」』
そして短編は最後、この一行で終わる。
『午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想なことを致しましたとあるばかりで家人(うちのもの)が悪いとも残酷だとも一向書いてなかった。』
文鳥が死んだことに対して、自分が世話をしなかったことを後悔する、あるいは自分の非を認めるような表現は一切ない。にもかかわらず、読者は行間から、漱石が自分を強く責めていることを読みとれるのである。
大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
大戦末期、感化院(今でいう少年院)の院児たちは空爆を避けて、山の奥の僻村に集団疎開させられる。そこでは疫病が流行し始め、院児の一人の死亡をきっかけに村人は、院児たちを置いて隣の村に避難してしまう。唯一の交通手段であるトロッコの軌道を遮断された院児たちは、自給自足の生活を営みはじまる・・・。
大江健三郎の小説は新潮文庫の「死者の奢り・飼育」という短編集を読んで以来である。やたら死体が出てくる印象が強かったが、それはこの長編でも変わらない。
『彼らは懐中電燈をかざして屈みこみ、死者をしらべた。淡黄色の光の輪のなかの、蒼くみすぼらしい小っぽけな頭、青ざめて果物の表皮のようにこわばっている皮膚、短い鼻の下の少量の乾いた血。そして荒々しい指に剥かれる重い瞼、腹のあたりで折れまがりかさなっている両腕。それは醜かった。・・・』
フランスの哲学者ジャン-ポール・サルトルの、実存主義という思想に影響を受けた作家である。実存とは、現実存在の略で、本質存在に対する現実存在、つまりは唯物的なものの捉え方をする。死体というものは、人間が物質に戻ったものと考えると、大江健三郎が頻繁にこれを取り上げた理由も分かる。
残された院児たち、疫病に斃れた父親と共に村に残っていた朝鮮部落の少年、そこで匿われていた脱走兵、同じく疫病で死体と化した母の亡骸の傍で発狂した、土蔵の少女。皆で力を合わせて自分たちの楽園を創り出すが、帰って来た村人たちの圧倒的な力にひれ伏すことになる・・・。
なんとも胸糞の悪い話である。物資が不足していた時代の物語背景による、「垢にまみれた・・・」等の不潔な描写と相成って、読者は眉をしかめながら読み進めねばならない。現実存在というのは、このように不快で不潔なものなのであろうか。
星新一「殉教」
霊界にいる死者と通信することができる機械を発明した男が、人を集めたホールで実際に死んだ妻と話をし始める。デモンストレーションを終えた男はその場で自殺し、機械のマイクを通して霊界から「死というのは素晴らしい。肉体から解放された気分だ」と言う。人々は機械の前に列をなし、既に他界した知人と会話したあと、死の恐怖から解放されて次々と自殺していく・・・。
ユートピアの反意語をディストピアというらしい。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだのは、この小説を読んでから大分経ってからであるが、非常に似てると思った。小説の筋がではない。根底に流れている思想、つまりは星新一とジョージ・オーウェルの人生観である。厭世主義もここまでくると立派な芸術になるのだ。
『このころになると、簡単なルールができていた。機械をはさんで、一方に死体の列がつづき、反対側には順番を待つ人々の列がつづいている。機械と話し終った者は、うしろの者にそれを手わたし、自分は死体の列に加わる。』自殺におけるこのような秩序は整備されていればいるだけ不気味である。星新一の簡潔な文体が、血の通わない手続きで粛々と勧められる自殺を見事に表現している。
生き残った者たち、すなわち宗教も科学も人間も、ましては自分自身も信じることができない者たちが、これも粛々とただ「邪魔だ」という理由で死体をブルドーザーで片付けながら、この小説は終わる。つまり、死者が「死後の世界はいいものだ」と言うということは、もはや死を恐れる理由がなくなるわけである。これは必然的に生の無意味さの証明につながる。それでも生き残る者たちというのは、死後の世界を神話的に説く宗教を信用しないのは勿論として、死者と話せる機械(科学)、機械を通して語りかける故人である家族や知人(人間)、そしてそれを聞いた自分の耳と判断した脳(自分自身)をも信じないこととなるのだ。ブルドーザーを運転する男は、生き残った者たちで創られていく新しい世界が「どんな世界になるかしら」と問われ、「わかるものか」と答える。このブルドーザーは、何の比喩なのであろうか。