愧為読書誤一生

ブログという名の読書ノート

ヘミングウェイ「清潔で、とても明るいところ」

 ごく短い短編である。

 午前二時ごろのカフェでは、テラスで一人耳の聞こえない老人がブランデーを飲んでいる。ウェイターの一人は、早く店じまいをしたいがために、老人のおかわりを断って帰らせてしまう。年上のウェイターがそれを非難する。

『「おれも、どちらかといや、カフェに遅くまで粘りたがるほうでね」年上のウェイターは言った。「いつまでもベッドに近寄りたくない連中の同類なんだ。夜には明りが必要な連中の同類なんだよ」』

 軽くあしらわれた後も、年上のウェイターは自分自身と語り続ける。

『…いや、不安とか恐怖が自分をむしばんでいるのではない。よく知っている、無(ナダ)というやつなのだ。おれについているのは。この世はすべて、無(ナダ)であって、人間もまた、無(ナダ)なんだ。…』

 ナダとはスペイン語の名詞nadaであり、この文脈だと虚無と訳すこともできるであろう。この虚無思想はヘミングウェイ作品につきもので、特に長編の「日はまた昇る」や「武器よさらば」において顕著である。ヘミングウェイは、パリ・キューバなど住居をあちらこちらと変え、スペイン内戦や第二次世界大戦が起きれば従軍記者として積極的に戦場に繰り出した。それらの経験を作品に活かしていたわけだが、常に根底にはこの虚無思想が漂っている。

 無(ナダ)について言葉遊びをしながら、年上のウェイターは酒場に着く。

『「何にします?」バーテンが訊いた。

「無(ナダ)」

「オトロ・ロコ・マス(また気の触れたやつがきた)」バーテンは言って、背中を向けた。』

 このような素敵な会話のやりとりも、ヘミングウェイの魅力である。

 

 新潮文庫 「勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪ーヘミングウェイ全短編2ー」 高見浩訳

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)

 

 

江戸川乱歩「鏡地獄」

 鏡の魅力に取りつかれた男が、庭に実験室を建築する。両親を病気で亡くして莫大な財産を受け継ぎ、男はそこで異様な実験を行い始める。

 望遠鏡で人家の中を盗み見したり、虫を傷つけて呻くさまを顕微鏡で眺めるだけでは飽き足らず、上下左右を鏡の一枚板で張りつめた鏡の部屋を作る。

『六方を鏡で張りつめた部屋のまん中に立てば、そこには彼の身体のあらゆる部分が、鏡と鏡が反射し合うために、無数の像となって映るものに違いありません。彼の上下左右に、彼と同じ数限りない人間が、ウジャウジャと殺到する感じに違いありません。』

 乱歩の文体によって不気味さが増しているが、この程度であれば、科学技術館などでも体験できそうなことである。男はその部屋に彼女を連れ込み、二人きりで鏡の国に遊ぶ。

『「あの子のたったひとつの取柄は、からだじゅうに数限りもなく、非常に深い濃やかな陰影があることだ。色艶も悪くはないし、肌も濃やかだし、肉付きも海獣のように弾力に富んではいるが、そのどれにもまして、あの女の美しさは、陰影の深さにある」』

 陰影にこそエロスが宿る、これはまさに谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」における思想そのものである。江戸川乱歩が谷崎の影響を受けていることが、この描写からも感じられる。

 男の異様な病癖はますます募り、財産をつぎ込んで庭の中央にガラス工場を建て、技師や職工を雇う。望む種類の鏡を自由に製造できるようになり、自らの夢想を次々に実現していくわけだが、この異世界の表現が実に美しい。

『ある時は部屋全体が、凹面鏡、凸面鏡、波形鏡、筒型鏡の洪水です。その中央で踊り狂う彼の姿は、或いは巨大に、或いは微小に、或いは細長く、或いは平べったく、或いは曲がりくねり、或いは胴ばかりが、或いは首の下に首がつながり、或いはひとつの顔に眼が四つでき、或いは唇が上下に無限に延び、或いは縮み、その影がまた互に反復し、交錯して、紛然雑然、まるで狂人の幻想です。』

 悪夢のような狂気と美の混合が、極めて現実的な物理現象である、鏡の反射を利用して表現されている。よく、鏡を異世界の入り口とするファンタジーがあるが、乱歩はこの話に一切非現実的な内容を含ませなかった。

 男は職人に、内部を凹面鏡で覆い、強い光の小電灯を設置し、人がその中に入れるようにした玉を作らせる。中から出られなくなった男は発狂し、ゲラゲラと笑いながら部屋の中を転がり続ける。ガラス玉の内部がいかなる小宇宙であったか、読者の想像を掻き立てながらこの短編は終わる。

 

 新潮文庫 江戸川乱歩 「江戸川乱歩傑作選 」収録

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

 

 

ホセ・ドノソ「別荘」

 巻頭にベントゥーラ一族の一覧がある。49人載っており、これに別荘の使用人たち、周囲に住む原住民を合わせると、登場人物は莫大な量になる。この時点で普通の小説ではない。

 別荘というのは、ベントゥーラ一族の所有する別荘を指す。この周囲の土地は、上質の金が採掘できる鉱山を含めてこの一族の所有である。毎年夏になると一族は、避暑がてら金の採掘具合を視察しに来るわけだ。無数の槍を使用した柵に囲まれ、広大な別荘で一族はカードゲームや他愛のないお喋りに明け暮れる。退屈した親たちが使用人たちを連れ、子供たちだけを置いてピクニックに出かけるところからこの小説の第一部「出発」は始まる。近くに楽園のような場所があるとの噂が広まったのだ。

 ストーリーの進行につれて、異常な登場人物たちと異常な舞台背景が明らかにされていく。男に生まれながら知恵遅れの母親に女の子として育てられた、無政府主義者のウェンセスラオ。その父であり、原住民と交流がある医師でもあり、現在は発狂して幽閉されているアドリアノ。本の背表紙しか飾られていない図書室で、存在しない本を読み続けるアラベラ。柵の槍をひたすら抜き続けるマウロ。従兄二人と男色にふけるフベナル…。

 別荘の周囲に住む原住民は、一族からは「人食い人種」と呼ばれ蔑まれている。そして無限の荒野に生え茂るグラミネアは、時期になると綿毛を撒き散らして人々を窒息させるのだ。

 第二部「帰還」になるとストーリーは一変する。大人たちが一日のピクニックを楽しんで帰ってくると、別荘では一年の月日が経っており、ウェンセスラオの父アドリアノが教祖として、原住民と子供たちが共同生活を営んでいる。危機感を覚えた大人たちは街へ避難し、執事率いる武装した使用人部隊によって別荘は制圧される。絶対的な権力を手に入れた執事は、別荘内にある全ての時計・カレンダーなどを没収し、鎧戸を閉めて窓ガラスを黒く塗るよう命令する。

『「…そうすれば昼と夜の区別はなくなり、すべてが歴史から外れた沼に停滞する。ご主人様が戻ってくるまで、歴史を止めておくのだ」』

 しかし使用人部隊の弾薬は底を尽きかけている。そして大人たちが、新たに雇った使用人部隊と共に別荘に向かってくる…。

 

 とても内容を事細かに説明できるような小説ではない。壁に描かれた騙し絵は自由に壁から出入りし、著者であるドノソは作中に登場して自らの創作した人物と会話をし始めるのだ。そして子供たちが使用人を含む大人たちに感じている不信感こそ、ドノソが描きたかったもののように思える。

 

 現代企画室 ホセ・ドノソ 「別荘」 寺尾隆吉訳

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

 

 

筒井康隆「ペニスに命中」

 認知症の老人を語り手にした短編である。このような調子で話が進んでいく。

『食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。わしがどんどん大きくなるのは宇宙が収縮しているからなのだという、さっきまでの考えを続けようとしていると台所から女が出てきて言う。』

 つまり認知症の主観的世界を、このような解体したものとして表現しているのだ。実際の認知症患者の主観はもう少しぼんやりとしたものになりそうだが、そこは実際になってみないとわからない。とにかく、このような文体は筒井康隆の得意分野であることは間違いない。老人は、テーブルに置かれた二百万円入りの銀行の封筒を見つけ、『言うまでもないことだが二百万円の札束というものは盗まれるために存在する』と考えてポケットに入れて外出する。

 交番でブリヂストン大学への行き先を聞いた老人は、警官が拳銃を机に置いたまま席を離れたのをいいことに、『言うまでもないことだが拳銃というものは盗まれるために存在する』と考え、『…ケースから拳銃を抜き取り銃身をベルトに差し込んでそのまま午後二時前後の、人生って不思議ですねなどと絶唱しているような気ちがいじみた道路』に出る。

 カフェテラスで札束を勘定してから大通りを歩いてると、金を狙った四人の若者が後をつけてくる。細い路地におびき寄せて、老人は若者に向かってフランスのシュルレアリスム詩人ゲラシム・ルカの詩を朗唱する。

『オー キミが好き ボクは

 キミが好き キミが好き キ

 キミが好き 好き 好き キミが好き

 パッションでイッパ 好き ボクは

 キミが好き パッションでイッパイで

 キミが好き

 パッションでイッパイで シッパイで』

 老人は若者たちに拳銃をぶっ放し、源氏物語についての講演会に乱入して拳銃をぶっ放し、歌舞伎町の暴力バーで拳銃をぶっ放すが、その件とは全く関係ない事情で警察署で取り調べをされることになる。『読者の中には、わしに拳銃を盗まれた警官の報告がなぜこの署に伝わっていないのかと疑問を抱く向きもあろうが、真の読者とはそんなことなど気にしないものだ』と牽制しながら。

 取り調べ室で名前を聞かれた老人は、徳川家康と答え、三引く二はいくつになるか聞かれると、『「その答えは無限にある。二引く一、一、一引くゼロ、百引く九十九、一万六千三百二十八引く一万六千三百二十七。あんたのその小さな脳によるたったひとつの解釈が絶対ではない。特にフェルマータの局所体など整数及びそれから派生する数の体系の性質などは無数に存在する。…」』と答える。

 隙をみた逃げ出した老人は、押収品保管庫から銃器類を盗み出し、タクシーに乗り込む。『「国会議事堂にやってくれ」と、わしは言った。あの喋り方の気に食わぬ総理大臣を四十六回殺してやる。』

 

 筒井康隆のブログ「偽文士日碌」の2013年8月17日付け記事にはこう書かれている。

『もう十日以上も、「ペニスに命中」という変な小説を書き続けている。…それにしても、書きながら笑ってしまうなどということは久しぶりだ』

 ゲラゲラ笑いながら執筆なさってたそうだ。執筆当時78歳、スラップスティックを楽しみながら書いているのは、とてつもないエネルギーである。

 

 新潮社 筒井康隆 「世界はゴ冗談」収録

世界はゴ冗談

世界はゴ冗談

 

 

 

 

太宰治「桜桃」

 太宰治の短編である。書き出しは、『子供より親が大事、と思いたい。』。

 自らの家庭における夫婦喧嘩を材にしたものだが、大声で罵りあうなどの場面はない。妻が呟いた嫌味に対して、太宰治は自分がいかに気が小さくて、喧嘩というものに向いてないかを書き連ねる。

 『私は議論をして、勝ったためしがない。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。』

 妻の嫌味は、家事と子育ての多忙さに関することであるが、これについても反省なのか自虐なのか、はたまた開き直りなのかよくわからない独白が続く。

 『母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのだ。』

 ひとりごとのように『誰か、ひとを雇いなさい。』と主張するが、反論にあって黙ってしまう。病気の妹のところに見舞いに行きたがっている妻に、子供の面倒を押し付け、太宰は金を持って酒場に行く。

 『きょうは夫婦喧嘩でね、陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る。』

 桜桃が出され、子供に食べさせたら喜ぶだろうと思いながら、不味そうに食べる。食べながら心の中で「子供より親が大事」と呟いて、この短編は終わる。

  この小説のタイトルを元に、太宰治の忌日は「桜桃忌」と呼ばれ、三鷹市の墓には毎年ファンが集うそうだ。このような小説が共感を呼ぶのはどういうわけか?正直に自分の内面をさらけ出すことへの、憧れなのかもしれない。

  なお、冒頭には、文語訳聖書の詩篇第百二十一篇が『われ、やまにむかひて、目を挙ぐ。』まで引用されている。この続きは『わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや』である。

 

 角川文庫 太宰治 「人間失格・桜桃」収録

人間失格 (角川文庫)

人間失格 (角川文庫)

 

 

夏目漱石「文鳥」

 夏目漱石私小説である。

 門下生の三重吉が、漱石文鳥を飼うよう勧める。金を渡して、籠と一緒に買ってきてもらい、飼い方を聞くとどうも大変そうだ。千代千代(チヨチヨ)と鳴いて可愛いので、水と餌を毎日取り替えてやるが、段々と世話を怠って、下女に任せてしまう。ふと気づいて籠を覗くと、文鳥は底で冷たくなっている。

 生き物を飼ったことのある人なら誰でも経験するようなことだ。特に物珍しい出来事は書かれていない。ただ、やはり表現力がすごい。文鳥の死に気付いた漱石は、下女を怒鳴りつけ、三重吉にこう手紙を書く。

『「家人(うちのもの)が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠に入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」』

 そして短編は最後、この一行で終わる。

『午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想なことを致しましたとあるばかりで家人(うちのもの)が悪いとも残酷だとも一向書いてなかった。』

 文鳥が死んだことに対して、自分が世話をしなかったことを後悔する、あるいは自分の非を認めるような表現は一切ない。にもかかわらず、読者は行間から、漱石が自分を強く責めていることを読みとれるのである。

 

 新潮文庫 夏目漱石 「文鳥夢十夜」収録

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

 

大江健三郎「芽むしり仔撃ち」

 大戦末期、感化院(今でいう少年院)の院児たちは空爆を避けて、山の奥の僻村に集団疎開させられる。そこでは疫病が流行し始め、院児の一人の死亡をきっかけに村人は、院児たちを置いて隣の村に避難してしまう。唯一の交通手段であるトロッコの軌道を遮断された院児たちは、自給自足の生活を営みはじまる・・・。

 大江健三郎の小説は新潮文庫の「死者の奢り・飼育」という短編集を読んで以来である。やたら死体が出てくる印象が強かったが、それはこの長編でも変わらない。

『彼らは懐中電燈をかざして屈みこみ、死者をしらべた。淡黄色の光の輪のなかの、蒼くみすぼらしい小っぽけな頭、青ざめて果物の表皮のようにこわばっている皮膚、短い鼻の下の少量の乾いた血。そして荒々しい指に剥かれる重い瞼、腹のあたりで折れまがりかさなっている両腕。それは醜かった。・・・』

 フランスの哲学者ジャン-ポール・サルトルの、実存主義という思想に影響を受けた作家である。実存とは、現実存在の略で、本質存在に対する現実存在、つまりは唯物的なものの捉え方をする。死体というものは、人間が物質に戻ったものと考えると、大江健三郎が頻繁にこれを取り上げた理由も分かる。

 残された院児たち、疫病に斃れた父親と共に村に残っていた朝鮮部落の少年、そこで匿われていた脱走兵、同じく疫病で死体と化した母の亡骸の傍で発狂した、土蔵の少女。皆で力を合わせて自分たちの楽園を創り出すが、帰って来た村人たちの圧倒的な力にひれ伏すことになる・・・。

 なんとも胸糞の悪い話である。物資が不足していた時代の物語背景による、「垢にまみれた・・・」等の不潔な描写と相成って、読者は眉をしかめながら読み進めねばならない。現実存在というのは、このように不快で不潔なものなのであろうか。

 

 新潮文庫 大江健三郎 「芽むしり仔撃ち」

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)