愧為読書誤一生

ブログという名の読書ノート

芥川龍之介「黒衣聖母」

 マリア観音とは、聖母マリアに擬せられた観音菩薩像をいう。江戸時代、禁教令により弾圧されていたキリシタンたちが、密かに信仰の対象とするためにつくったものだ。

 

 両親を亡くした稲見姉弟は、七十を越した祖母の手に育てられていた。弟は八つばかりの時、重い麻疹にかかり、もう今日か明日の容体になってしまう。祖母は姉を土蔵に連れて行き、白木のお宮を開くと、黒檀のマリア観音像が端然と立っている。祖母は十字を切り長い祈禱をあげ、『…せめては私の息のござりますかぎり、茂作の命をお助けくださいまし。…』と願をかける。

 明くる日、弟の病気は回復の兆しをみせてきた。祖母は涙を流して喜び、看病疲れから横になった。だが、呼びかけに応じないことに不審を抱いた女中がそばに行くと、祖母は既に絶命していた。それから十分ばかりのうちに、弟も息を引き取った。

 『…麻利耶観音は約束どおり、祖母の命のある間は、茂作を殺さずにおいたのです。』

 

 このマリア観音の台座の銘には、横文字でこう刻んである。

 DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO…

 「汝の祈禱、神々の定めたもうところを動かすべしと望むなかれ」

 

 角川文庫「杜子春」収録

杜子春 (角川文庫)

杜子春 (角川文庫)