愧為読書誤一生

ブログという名の読書ノート

筒井康隆「ペニスに命中」

 認知症の老人を語り手にした短編である。このような調子で話が進んでいく。

『食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。わしがどんどん大きくなるのは宇宙が収縮しているからなのだという、さっきまでの考えを続けようとしていると台所から女が出てきて言う。』

 つまり認知症の主観的世界を、このような解体したものとして表現しているのだ。実際の認知症患者の主観はもう少しぼんやりとしたものになりそうだが、そこは実際になってみないとわからない。とにかく、このような文体は筒井康隆の得意分野であることは間違いない。老人は、テーブルに置かれた二百万円入りの銀行の封筒を見つけ、『言うまでもないことだが二百万円の札束というものは盗まれるために存在する』と考えてポケットに入れて外出する。

 交番でブリヂストン大学への行き先を聞いた老人は、警官が拳銃を机に置いたまま席を離れたのをいいことに、『言うまでもないことだが拳銃というものは盗まれるために存在する』と考え、『…ケースから拳銃を抜き取り銃身をベルトに差し込んでそのまま午後二時前後の、人生って不思議ですねなどと絶唱しているような気ちがいじみた道路』に出る。

 カフェテラスで札束を勘定してから大通りを歩いてると、金を狙った四人の若者が後をつけてくる。細い路地におびき寄せて、老人は若者に向かってフランスのシュルレアリスム詩人ゲラシム・ルカの詩を朗唱する。

『オー キミが好き ボクは

 キミが好き キミが好き キ

 キミが好き 好き 好き キミが好き

 パッションでイッパ 好き ボクは

 キミが好き パッションでイッパイで

 キミが好き

 パッションでイッパイで シッパイで』

 老人は若者たちに拳銃をぶっ放し、源氏物語についての講演会に乱入して拳銃をぶっ放し、歌舞伎町の暴力バーで拳銃をぶっ放すが、その件とは全く関係ない事情で警察署で取り調べをされることになる。『読者の中には、わしに拳銃を盗まれた警官の報告がなぜこの署に伝わっていないのかと疑問を抱く向きもあろうが、真の読者とはそんなことなど気にしないものだ』と牽制しながら。

 取り調べ室で名前を聞かれた老人は、徳川家康と答え、三引く二はいくつになるか聞かれると、『「その答えは無限にある。二引く一、一、一引くゼロ、百引く九十九、一万六千三百二十八引く一万六千三百二十七。あんたのその小さな脳によるたったひとつの解釈が絶対ではない。特にフェルマータの局所体など整数及びそれから派生する数の体系の性質などは無数に存在する。…」』と答える。

 隙をみた逃げ出した老人は、押収品保管庫から銃器類を盗み出し、タクシーに乗り込む。『「国会議事堂にやってくれ」と、わしは言った。あの喋り方の気に食わぬ総理大臣を四十六回殺してやる。』

 

 筒井康隆のブログ「偽文士日碌」の2013年8月17日付け記事にはこう書かれている。

『もう十日以上も、「ペニスに命中」という変な小説を書き続けている。…それにしても、書きながら笑ってしまうなどということは久しぶりだ』

 ゲラゲラ笑いながら執筆なさってたそうだ。執筆当時78歳、スラップスティックを楽しみながら書いているのは、とてつもないエネルギーである。

 

 新潮社 筒井康隆 「世界はゴ冗談」収録

世界はゴ冗談

世界はゴ冗談

 

 

 

 

太宰治「桜桃」

 太宰治の短編である。書き出しは、『子供より親が大事、と思いたい。』。

 自らの家庭における夫婦喧嘩を材にしたものだが、大声で罵りあうなどの場面はない。妻が呟いた嫌味に対して、太宰治は自分がいかに気が小さくて、喧嘩というものに向いてないかを書き連ねる。

 『私は議論をして、勝ったためしがない。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。』

 妻の嫌味は、家事と子育ての多忙さに関することであるが、これについても反省なのか自虐なのか、はたまた開き直りなのかよくわからない独白が続く。

 『母も精一ぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのだ。』

 ひとりごとのように『誰か、ひとを雇いなさい。』と主張するが、反論にあって黙ってしまう。病気の妹のところに見舞いに行きたがっている妻に、子供の面倒を押し付け、太宰は金を持って酒場に行く。

 『きょうは夫婦喧嘩でね、陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る。』

 桜桃が出され、子供に食べさせたら喜ぶだろうと思いながら、不味そうに食べる。食べながら心の中で「子供より親が大事」と呟いて、この短編は終わる。

  この小説のタイトルを元に、太宰治の忌日は「桜桃忌」と呼ばれ、三鷹市の墓には毎年ファンが集うそうだ。このような小説が共感を呼ぶのはどういうわけか?正直に自分の内面をさらけ出すことへの、憧れなのかもしれない。

  なお、冒頭には、文語訳聖書の詩篇第百二十一篇が『われ、やまにむかひて、目を挙ぐ。』まで引用されている。この続きは『わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや』である。

 

 角川文庫 太宰治 「人間失格・桜桃」収録

人間失格 (角川文庫)

人間失格 (角川文庫)

 

 

夏目漱石「文鳥」

 夏目漱石私小説である。

 門下生の三重吉が、漱石文鳥を飼うよう勧める。金を渡して、籠と一緒に買ってきてもらい、飼い方を聞くとどうも大変そうだ。千代千代(チヨチヨ)と鳴いて可愛いので、水と餌を毎日取り替えてやるが、段々と世話を怠って、下女に任せてしまう。ふと気づいて籠を覗くと、文鳥は底で冷たくなっている。

 生き物を飼ったことのある人なら誰でも経験するようなことだ。特に物珍しい出来事は書かれていない。ただ、やはり表現力がすごい。文鳥の死に気付いた漱石は、下女を怒鳴りつけ、三重吉にこう手紙を書く。

『「家人(うちのもの)が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠に入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」』

 そして短編は最後、この一行で終わる。

『午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想なことを致しましたとあるばかりで家人(うちのもの)が悪いとも残酷だとも一向書いてなかった。』

 文鳥が死んだことに対して、自分が世話をしなかったことを後悔する、あるいは自分の非を認めるような表現は一切ない。にもかかわらず、読者は行間から、漱石が自分を強く責めていることを読みとれるのである。

 

 新潮文庫 夏目漱石 「文鳥夢十夜」収録

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

 

大江健三郎「芽むしり仔撃ち」

 大戦末期、感化院(今でいう少年院)の院児たちは空爆を避けて、山の奥の僻村に集団疎開させられる。そこでは疫病が流行し始め、院児の一人の死亡をきっかけに村人は、院児たちを置いて隣の村に避難してしまう。唯一の交通手段であるトロッコの軌道を遮断された院児たちは、自給自足の生活を営みはじまる・・・。

 大江健三郎の小説は新潮文庫の「死者の奢り・飼育」という短編集を読んで以来である。やたら死体が出てくる印象が強かったが、それはこの長編でも変わらない。

『彼らは懐中電燈をかざして屈みこみ、死者をしらべた。淡黄色の光の輪のなかの、蒼くみすぼらしい小っぽけな頭、青ざめて果物の表皮のようにこわばっている皮膚、短い鼻の下の少量の乾いた血。そして荒々しい指に剥かれる重い瞼、腹のあたりで折れまがりかさなっている両腕。それは醜かった。・・・』

 フランスの哲学者ジャン-ポール・サルトルの、実存主義という思想に影響を受けた作家である。実存とは、現実存在の略で、本質存在に対する現実存在、つまりは唯物的なものの捉え方をする。死体というものは、人間が物質に戻ったものと考えると、大江健三郎が頻繁にこれを取り上げた理由も分かる。

 残された院児たち、疫病に斃れた父親と共に村に残っていた朝鮮部落の少年、そこで匿われていた脱走兵、同じく疫病で死体と化した母の亡骸の傍で発狂した、土蔵の少女。皆で力を合わせて自分たちの楽園を創り出すが、帰って来た村人たちの圧倒的な力にひれ伏すことになる・・・。

 なんとも胸糞の悪い話である。物資が不足していた時代の物語背景による、「垢にまみれた・・・」等の不潔な描写と相成って、読者は眉をしかめながら読み進めねばならない。現実存在というのは、このように不快で不潔なものなのであろうか。

 

 新潮文庫 大江健三郎 「芽むしり仔撃ち」

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

 

 

星新一「殉教」

 霊界にいる死者と通信することができる機械を発明した男が、人を集めたホールで実際に死んだ妻と話をし始める。デモンストレーションを終えた男はその場で自殺し、機械のマイクを通して霊界から「死というのは素晴らしい。肉体から解放された気分だ」と言う。人々は機械の前に列をなし、既に他界した知人と会話したあと、死の恐怖から解放されて次々と自殺していく・・・。

 ユートピアの反意語をディストピアというらしい。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだのは、この小説を読んでから大分経ってからであるが、非常に似てると思った。小説の筋がではない。根底に流れている思想、つまりは星新一ジョージ・オーウェルの人生観である。厭世主義もここまでくると立派な芸術になるのだ。

 『このころになると、簡単なルールができていた。機械をはさんで、一方に死体の列がつづき、反対側には順番を待つ人々の列がつづいている。機械と話し終った者は、うしろの者にそれを手わたし、自分は死体の列に加わる。』自殺におけるこのような秩序は整備されていればいるだけ不気味である。星新一の簡潔な文体が、血の通わない手続きで粛々と勧められる自殺を見事に表現している。

 生き残った者たち、すなわち宗教も科学も人間も、ましては自分自身も信じることができない者たちが、これも粛々とただ「邪魔だ」という理由で死体をブルドーザーで片付けながら、この小説は終わる。つまり、死者が「死後の世界はいいものだ」と言うということは、もはや死を恐れる理由がなくなるわけである。これは必然的に生の無意味さの証明につながる。それでも生き残る者たちというのは、死後の世界を神話的に説く宗教を信用しないのは勿論として、死者と話せる機械(科学)、機械を通して語りかける故人である家族や知人(人間)、そしてそれを聞いた自分の耳と判断した脳(自分自身)をも信じないこととなるのだ。ブルドーザーを運転する男は、生き残った者たちで創られていく新しい世界が「どんな世界になるかしら」と問われ、「わかるものか」と答える。このブルドーザーは、何の比喩なのであろうか。

 

 新潮文庫 星新一「ようこそ地球さん」収録

ようこそ地球さん (新潮文庫)

ようこそ地球さん (新潮文庫)