大江健三郎「芽むしり仔撃ち」
大戦末期、感化院(今でいう少年院)の院児たちは空爆を避けて、山の奥の僻村に集団疎開させられる。そこでは疫病が流行し始め、院児の一人の死亡をきっかけに村人は、院児たちを置いて隣の村に避難してしまう。唯一の交通手段であるトロッコの軌道を遮断された院児たちは、自給自足の生活を営みはじまる・・・。
大江健三郎の小説は新潮文庫の「死者の奢り・飼育」という短編集を読んで以来である。やたら死体が出てくる印象が強かったが、それはこの長編でも変わらない。
『彼らは懐中電燈をかざして屈みこみ、死者をしらべた。淡黄色の光の輪のなかの、蒼くみすぼらしい小っぽけな頭、青ざめて果物の表皮のようにこわばっている皮膚、短い鼻の下の少量の乾いた血。そして荒々しい指に剥かれる重い瞼、腹のあたりで折れまがりかさなっている両腕。それは醜かった。・・・』
フランスの哲学者ジャン-ポール・サルトルの、実存主義という思想に影響を受けた作家である。実存とは、現実存在の略で、本質存在に対する現実存在、つまりは唯物的なものの捉え方をする。死体というものは、人間が物質に戻ったものと考えると、大江健三郎が頻繁にこれを取り上げた理由も分かる。
残された院児たち、疫病に斃れた父親と共に村に残っていた朝鮮部落の少年、そこで匿われていた脱走兵、同じく疫病で死体と化した母の亡骸の傍で発狂した、土蔵の少女。皆で力を合わせて自分たちの楽園を創り出すが、帰って来た村人たちの圧倒的な力にひれ伏すことになる・・・。
なんとも胸糞の悪い話である。物資が不足していた時代の物語背景による、「垢にまみれた・・・」等の不潔な描写と相成って、読者は眉をしかめながら読み進めねばならない。現実存在というのは、このように不快で不潔なものなのであろうか。