愧為読書誤一生

ブログという名の読書ノート

三島由紀夫「潮騒」

 『歌島は人口四百、周囲一里に充たない小島である。』

 都会の喧騒から離れた小島を舞台に、漁師の青年と海女の少女の純真無垢な恋物語が描かれる。

 物語の筋に何も特別な仕掛けはなく、ありきたりな障害を乗り越えて二人は結ばれる。登場人物はほとんどが善意にあふれた単純なキャラクターだ。恋路を邪魔する人物も、平凡な嫉妬から軽い嫌がらせを仕掛けてくる程度だ。病的な思考パターンを持った人物や、凄惨な事件は一切存在しない。これは他の三島作品、中でも金閣寺仮面の告白などの純文学作品と比べると異常である。

 構成が単純なこと、さらには力強い自然と調和した世界観により、三島由紀夫はその卓越した修辞技法を遺憾なく発揮することができている。歌島の大自然と若い二人の清らかな恋は、天才的な美文によって表現されていく。

 

 『八代神社には六十六面の銅鏡の宝があった。八世紀頃の葡萄鏡もあれば、日本に十五六しかない六朝時代の鏡のコピイもあった。鏡の裏面に彫られた鹿や栗鼠たちは、遠い昔、波斯の森のなかから、永い陸路や、八重の潮路をたどって、世界の半ばを旅して来て、今この島に、住ならえているのであった。』

 

 『午後になると燈台のあたりは、没する日が東山に遮られて、翳った。明るい海の空に、鳶が舞っている。鳶は天の高みで、両翼をためすようにかわるがわる撓らせて、さて下降に移るかと思うと移らずに、急に空中であとずさりして、帆翔に移ったりした。』

 

 『新治が女をたくさん知っている若者だったら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎のむこうに立っている初江の裸が、まぎれもない処女の体だということを見抜いたであろう。決して色白とはいえない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引締り、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげていた。新治は見破られるのが怖さに、ほんのすこししか目をあけていなかったので、この姿はぼんやりとした輪郭を保ち、コンクリートの天井にとどくほどの焔を透かして、火のたゆたいに紛れて眺められた。』

 

 純朴な島民たちに囲まれて繰り広げられる真直ぐな恋物語は、現実の複雑な世界とはかけ離れている。三島由紀夫は小説世界に、自らの理想とする人工的な楽園をつくりだした。

 

 

新潮文庫潮騒三島由紀夫

潮騒 (新潮文庫)

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