三島由紀夫「椅子」
三島由紀夫は祖母の部屋で育てられた。病弱な祖母は、この孫を外に出すのを嫌がり、自分の枕元で音をたてずに静かにさせておいたのだ。短編の前半は、この当時の母親の手記からの引用で占められている。
『「朝から午後まで、うす暗い八畳の祖母の病室にとじこめられて、きちんと坐って、一心に絵を画いているこの子供。それをじっと見ていなければならない若い母親が私だ。…』
『「夕方泣きながらやって来た。
理由を聞くと、僕が障子をしめた時すこし大きな音がしたので急に足がひどく痛んで叱られたという。すまないと思うのと、足のけいれんの恐ろしさ、叱られた悲しさが小さな心にいっぱいで、母親の顔を見るや否や、涙となって溢れてきたらしい。…」』
母親は、我が子を他の男の子のように外で活発に遊ばせたかったようだ。しかし祖母に逆らうことはできない。手記には皮肉的な祖母との具体的なエピソードとそれへの反感が、呪詛のように書かれている。
ここまでは、母親の愛情と葛藤を描いた、やや特殊ではあるもののそれほど珍しくはない一家庭のエピソードである。家を重視する当時では、このようなことはよくあったのであろう。
三島由紀夫はこの手記の内容について、細かに分析していく。
『母のさまざまな感情移入には誤算があった。私は外に出て遊びたかったり乱暴を働きたかったりするのを我慢しながら、病人の枕許に音も立てずに坐っていたのではない。私はそうしているのが好きだったのだ。…中略…私はそのころ祖母の病的な絶望的な執拗な愛情が満更でもなかったのだ。』
『母がそうして見ていたとき、私はおそらく何の悲しみにも囚われていはしなかった。私の娯しみは、若干のお菓子とノートブックと画用紙と色鉛筆と童謡集があれば十分であった。』
さらには、祖母附きの看護婦に軽い性的な悪戯をされた思い出が、むしろ好意的に述懐されている。当時の母の苦悩と悲しみを尻目に、息子は背徳的な快楽に耽っていたのだ。母と幼少期の三島由紀夫は、そのまま小説内の登場人物のように、突き放したように客観的に分析されている。
新潮文庫『岬にての物語』収録