三島由紀夫「春の雪 豊饒の海(一)」
三島由紀夫が傾倒していたフランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、禁忌(タブー)の侵犯こそがエロティシズムの本質であると著書「エロティシズム」で書いている。「春の雪」は、この思想を小説において表現したものだ。
大正時代、侯爵家の跡取りである松枝清顕は、幼馴染の綾倉聡子と恋仲になりかけるが、些細な出来事でプライドを傷つけられる。以後、手紙や電話による再三の呼びかけに一切応じず、無視を貫きとおす。そのなかで、聡子に皇族との縁談の話が持ち上がる。綾倉家の存続を担った縁談であるが、それでも聡子は清顕への思いを断ち切れない。しかし清顕は綾倉家からの電話をすべて拒み、彼女からの長文の恋文も封すら開けずに燃やしてしまう。遂に勅許が下り、聡子と洞院宮第三王子治典王殿下との婚約が成立する。
【 ……高い喇叭の響きのようなものが、清顕の心に湧きのぼった。
『僕は聡子に恋している』
いかなる見地からしても寸分も疑わしいところのないこんな感情を、彼が持ったのは生まれてはじめてだった。
『優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を』と彼は考えた。この観念がはじめて彼に、久しい間堰き止められていた真の肉感を教えた。思えば彼の、ただたゆたうばかりの肉感は、こんな強い観念の支柱をひそかに求めつづけていたのにちがいない。彼が本当に自分にふさわしい役割を見つけ出すには、何と手間がかかったことだろう。
『今こそ僕は聡子に恋している』
この感情の正しさと確実さを証明するためには、ただそれが絶対不可能なものになったというだけで十分だった。】
言うまでもなく、皇族の婚約者に手を出すことは最大のタブーである。本人はもちろんのこと、松枝侯爵家の完全なる破滅も免れない。しかし清顕の望んでいたものはそれであった。彼は聡子に半ば脅しめいた誘いをかけ、将来の破滅に彩られた官能的な夜を幾度も過ごし、妊娠させてしまう。激怒した両家の当主は極秘裏に堕胎させるが、聡子はそのまま剃髪して出家し、俗世を捨ててしまう。未練を断ち切れない清顕は、雪の中長い参道を毎日通いつめて面会を乞うが、叶わぬままに肺炎で死ぬ。死の前に、親友の本多繁邦にこう言い残して。
『「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」』
「春の雪」は、豊饒の海四部作の第一作目である。夢と転生の物語である豊饒の海は、以後、松枝清顕の生まれ変わりである人物をそれぞれ主人公に据えて進行していく。
サムコ・ターレ「墓地の書」
知的障害を持つサムコ・ターレは、アル中の占い師に「『墓地の書』を書き上げる」とのお告げを受け、雨が降ったから作家になることにした。実際の作者はダニエラ・カピターニョヴァーというスロヴァキアの女性作家である。
サムコ・ターレは繰り返しの多い幼稚な文体で、自分の身の回りの人々や出来事をひたすら記述していく。子供のような目線からの記録が、そのまま社会主義体制崩壊により既存の価値観が逆転したスロヴァキア社会の諷刺になっている。
『だって、ひとつだけとても嫌いなことがあるから。何もかもただなんとなく変わってしまって、もうすべてが違ってしまって、ところがいまがどんなふうなのかを教えてくれないから、以前といまが同じだと思っていると以前とはやっぱり違っていて、いまがどんなふうなのかを知らないのかと、みんなに馬鹿にされることだ。』
マジックリアリズムの影響を受けたであろう異常な登場人物たちも魅力的だ。アル中のドイツ人で、アドゥラールという名前の石を使って占いをするグスト・ルーへ。肩から入って足から抜けた稲妻のおかげで神経関連の障害者になり、キノコ関連で特別な使命をになっていると思い込んでいる行方不明のオトおじさん。自分が死んだらズボンの前を開けてペニスが顔を出せるようにして、犬ころみたいな人類を見ないでいいよう目に黒いテープを貼り付ける様に頼んだ婦人服商人のミレル・アダム。誰かが座っているのを見ると恐ろしく腹をたてて罵り、決して座ることなく九十二歳まで生きたが、事故で尾てい骨を折ったことで医者にもう二度とふつうに座れないと言われ怒って死んでしまったチェトロヴェツ。
サムコ・ターレは段ボールを集める仕事と、自らの勤勉さ・倹約心に自信を持っており、さらには共産党に対する忠誠心に誇りを抱いていた。民主化により社会は一変するが、当然サムコはその急速な流れについていけない。今まで善とされていたことをしているのに、みんなからは笑われ、後ろ指をさされることになる。彼からすれば、狂っているのは社会のほうだと思うのも当然であろう。
松籟社「墓地の書」木村英明訳
ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」
物語の核をなす手記の書き手である女性は、住み込み家庭教師の広告に応募した。広告主は両親を亡くした甥と姪の後見人になっている。その兄妹の住む田舎の屋敷に、家庭教師を兼ねて責任者として赴任してほしいとの依頼だった。条件は「主人(依頼者)を絶対に煩わせないこと。主人には一切迷惑をかけないこと」である。
兄妹は聡明であり可憐で、屋敷での生活は不自由なく過ぎていく。しかし、家庭教師が二人の幽霊を目撃することで、屋敷に不穏な空気が流れ始める。幽霊は昔屋敷で働いていた下男と、前任の家庭教師である。家政婦の話では、この男女の間には関係があり、兄弟とも仲がよかったようだ。
幽霊とはいっても、家庭教師以外に証言したものはいない。兄妹と一緒にいるときに出現することがあっても、彼らはそれに対して反応はしない。兄妹は見えているとも見えていないとも取れるような態度をとる。
この兄弟の曖昧な態度により、家庭教師の不信感が増していく。悲劇的な結末が待ってはいるが、最後までその真意はわからない。幽霊が実際に存在したのか、あるいは家庭教師の妄想の産物なのか、明らかにされないのだ。ヘンリー・ジェイムズの筆力により、読者は二通りの解釈を突き付けられる。批評家たちの百年以上に渡る論争を眺めて、作者はあの世でほくそ笑んでいることだろう。
会田雄次「アーロン収容所」
ルネサンス史を専門とする学者である著者は、終戦直後から一年九カ月の間、ビルマにおいて英軍の捕虜生活を送った。そこでの強制労働の日々とイギリス人に対する憎悪、現地のビルマ人やインド兵との交流が記されている。
不潔な環境と重労働はもちろんだが、イギリス軍兵士のアジア人蔑視からくる精神的苦痛が特に耐えがたかったようだ。女兵舎を掃除に行くと、こちらを気にもせずに全裸で身支度をする。なにか用を言いつけ、お礼としてタバコを床に放り投げてくる。支給される食事は下等米なのはまだしも、砂や泥が三割も混じっている。小隊長が抗議に行くと、『「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜飼料として使用し、なんら害なきものである」』と真面目に返してくるのだ。
著者は歴史家として、当時の日本兵としての感情をそのまま記録することを選んだようだ。『「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」』と当時の正直な気持ちが綴られている。
痛快なのは泥棒の話だ。食料も衣服も満足に与えられず、英軍の倉庫から盗まざるをえないとの建前で、実際は抑圧者への憂さ晴らしとして捕虜たちは次々と泥棒をしていく。缶詰や衣類はもちろん。休日に行われる芝居の小道具に使うありとあらゆるものを盗む。監視のイギリス兵やインド兵も取り締まるが、あまりやる気はない。いくら取り締まっても無駄であるし、そもそも彼らも泥棒や横流しをしているのだ。
著者は西洋のヒューマニズムというものに疑義を呈している。自らの経験によって、それを神聖なものとして崇拝する日本人に対して忸怩たる思いがあったのであろう。
三島由紀夫「潮騒」
『歌島は人口四百、周囲一里に充たない小島である。』
都会の喧騒から離れた小島を舞台に、漁師の青年と海女の少女の純真無垢な恋物語が描かれる。
物語の筋に何も特別な仕掛けはなく、ありきたりな障害を乗り越えて二人は結ばれる。登場人物はほとんどが善意にあふれた単純なキャラクターだ。恋路を邪魔する人物も、平凡な嫉妬から軽い嫌がらせを仕掛けてくる程度だ。病的な思考パターンを持った人物や、凄惨な事件は一切存在しない。これは他の三島作品、中でも金閣寺や仮面の告白などの純文学作品と比べると異常である。
構成が単純なこと、さらには力強い自然と調和した世界観により、三島由紀夫はその卓越した修辞技法を遺憾なく発揮することができている。歌島の大自然と若い二人の清らかな恋は、天才的な美文によって表現されていく。
『八代神社には六十六面の銅鏡の宝があった。八世紀頃の葡萄鏡もあれば、日本に十五六しかない六朝時代の鏡のコピイもあった。鏡の裏面に彫られた鹿や栗鼠たちは、遠い昔、波斯の森のなかから、永い陸路や、八重の潮路をたどって、世界の半ばを旅して来て、今この島に、住ならえているのであった。』
『午後になると燈台のあたりは、没する日が東山に遮られて、翳った。明るい海の空に、鳶が舞っている。鳶は天の高みで、両翼をためすようにかわるがわる撓らせて、さて下降に移るかと思うと移らずに、急に空中であとずさりして、帆翔に移ったりした。』
『新治が女をたくさん知っている若者だったら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎のむこうに立っている初江の裸が、まぎれもない処女の体だということを見抜いたであろう。決して色白とはいえない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引締り、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげていた。新治は見破られるのが怖さに、ほんのすこししか目をあけていなかったので、この姿はぼんやりとした輪郭を保ち、コンクリートの天井にとどくほどの焔を透かして、火のたゆたいに紛れて眺められた。』
純朴な島民たちに囲まれて繰り広げられる真直ぐな恋物語は、現実の複雑な世界とはかけ離れている。三島由紀夫は小説世界に、自らの理想とする人工的な楽園をつくりだした。
ヘミングウェイ「日はまた昇る」
第一次世界大戦後のパリには、アメリカの画家や詩人、作家などの芸術家によるコミュニティが形成されていた。多くは酒に溺れた自堕落な生活を送っており、彼らのためにサロンを開いていたガートルード・スタインには、ロストジェネレーション(自堕落な世代)と呼ばれていた。この言葉がそのままエピグラフとして引用されている。
パリで特派員として勤める語り手のジェイク・バーンズは、戦争中の負傷で性的不能になっている。元の彼女であり性的に奔放なブレットと、その他の友達たちとの、スペインで開催される牛追い祭りへの参加を中心に話は進んでいく。
実質的な主人公であるブレットは、男なら誰でも夢中になる魅惑的な美女である。彼女に翻弄される男たちの駆け引きや嫉妬と、情熱的な闘牛の描写が話の軸となっている。
駆け引きの中で、男がブレットから身を引いて、相手に譲る印象的なシーンが二か所ある。一か所目は、老いた伯爵がダンスフロアでジェイクに彼女を譲るシーンだ。
『「ブレットが帰るそうです」そう言うと、伯爵がうなずいた。「そうか。いいとも。車を使ってくれたまえ、バーンズ殿。わしはしばらくここに残るので」
私たちは握手した。
「楽しかったですよ」私はそう言って、「ここの払いを負担させてもらえますか」とポケットから札を取り出した。
「ばかはやめなされ、バーンズ殿」と伯爵が言った。』
次は、ジェイクが譲るシーン。相手は将来有望な若き闘牛士、ペドロ・ロメロである。ブレットの望み通り、ジェイクは彼女を連れて、ロメロのいるカフェを訪れる。彼は仲間に断って、二人のいるテーブルに挨拶にくる。
『私は立ち上がった。ロメロも立った。
「そのまま」と私は言った。「ちょっと出て仲間を探さねば。連れて戻るよ」
ロメロは私を見た。了解ずみであることを確認する最後の一瞥。了解は成立していた。
「すわって」とブレットが言った。「わたしにスペイン語を教えて」
ロメロはすわり、テーブル越しにブレットを見た。私は店を出た。闘牛士が集うテーブルから、厳しい目が私の退出を見ていた。とても不快だった。二十分後、カフェに戻ると、ブレットとロメロの姿はなく、テーブルにはコーヒーカップと、空になった三個のコニャックグラスが残されていた。布巾を持ったウェーターが来て、グラスを片付け、テーブルを拭いた。』
闘牛では、雄牛どうしの喧嘩を避けるために、去勢牛を何頭か柵囲いに入れておく。ジェイクは性的不能者だが、去勢牛について説明しているとき、どこか自分に重ね合わせているように感じられる。
『「去勢牛は何もしないのかい」
「しない……というか、仲良くしようとする」
「何のための去勢牛だ」
「雄牛を落ち着かせるためさ。そうしないと、石の壁にぶつかって角を折ったり、喧嘩を始めたりするからな」
「去勢牛って大変だな」』
ジェイクは、ブレットを巡る男たちの争いから一歩引いた態度をとる。積極的に争奪戦に参加することはなく、語り手として客観的に眺めている。しかし、去勢牛に徹することはできない。自分のアパートを訪ねてきたブレットは、外に待たせていた伯爵のリムジンに戻っていく。
『階段でまたキスをした。玄関を頼みますと声をかけると、部屋の中で管理人が何やらぶつぶつ言うのが聞こえた。階段をのぼって部屋に戻り、開けっ放しの窓際に立った。アーク灯の下、歩道に寄せて大きなリムジンが止まっている。ブレットが歩いていくのが見えた。乗り込み、走り出した。私は部屋の中に向き直った。テーブルには空のグラスと、ブランデーソーダが半分残っているグラス――二つとも持ってキッチンに行き、飲み残しを流しに空けた。ダイニングのガス灯を消してベッドの縁に腰かけ、スリッパを蹴るようにぬいで、ベッドにもぐりこんだ。あれがブレット、泣きたいほどに思っていたブレットだ。通りを歩き、車に乗り込むブレットを私は思った。最後に見た姿のまま心に思い描いた。すると、またあの地獄のような惨めさがよみがえってきた。当然だ。昼間なら何があっても強がれる。だが、夜だとそうはいかない。』
三島由紀夫「仮面の告白」
小説の書き手である主人公が、幼少期から青年に至るまでの性遍歴を回顧する形で語られていく。
病弱な身体に生まれた<私>は、肉体労働に励む男たちに憧れにも似た倒錯した欲望を感じる。日焼けした筋骨隆々の肉体に深い憧憬を抱きながら、その身体に槍やナイフが深く喰い込み、鮮血が流れ出る場面を想像しながら<悪習>に浸る。
大学生となった<私>は、友人の妹に愛情を抱く。この愛情というものが、実に複雑な構造を持っている。主人公は女性に肉欲を感じたことはなかった。『およそ何らの欲求ももたずに女を愛せるものと』信じていたのだ。自らの性癖を隠すために、人生を舞台と考え、日常生活を演技によって過ごすことを当然と思っていた<私>は、他のみなと同じく女性を愛し、やがては結婚するであろうことを確信していた。このことと、自らの欲望に、なんら矛盾はないと信じていたのだ。
しかし決定的な場面が訪れる。双方の両親もほぼ公認の関係となった二人は、順当な流れに沿って、何度目かの逢瀬で、木立の陰で抱き合う。
『私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。――私には凡てがわかった。』
『逃げなければならぬ。一刻も早く逃げなければならぬ。私は焦慮した。浮かぬ面持を気どられまいために、私は常よりも陽気を装った。』
これ以上、人生の演技を続けていくことが不可能であることが分かってしまったのだ。戦争末期のことである。<私>は空襲による死を期待しながらも、わずかな希望を捨てきれずに、悪所通いをしている友人に同行することとなる。
『娼婦が口紅にふちどられた金歯の大口をあけて逞しい舌を棒のようにさし出した。私もまねて舌を突き出した。舌端が触れ合った。……余人にはわかるまい。無感覚というものが強烈な痛みに似ていることを。私は全身が強烈な痛みで、しかも全く感じられない痛みでしびれると感じた。私は枕に頭を落とした。
十分後に不可能が確定した。恥じが私の膝をわななかせた。』
これは三島由紀夫の自伝的小説である。自らの宿命を改めて見つめなおし、詳細に解剖して小説としてしまった。宿命は、彼にとって最初の書き下ろし長編であるこの小説により、見事に芸術へと昇華している。