安部公房「けものたちは故郷をめざす」
大日本帝国の敗戦後、満州国は滅亡した。満州で生まれ育った久木久三は、唯一の肉親である母を亡くす。孤児となった久三は、一度もその地を踏んだことのない故郷、日本を目指すこととなる。
その道のりはあまりにも険しいものだった。機関車は共産党と国民党の争いに関連した事故で横転し、荒野に放り出される。仕方がなしに、あまり信用をおけない日中混血の男、高石塔と行動を共にするが、道に迷い、食料と水も底をつく。極寒の中、雪を溶かしたお湯を飲んで飢えをしのぐ。ようやく通りかかった馬車に乗せてもらうが、眠っている間にカバンを盗られ、置き去りにされてしまう。なんとか街に辿り着くと、高に有り金を全部盗られて、無一文で彷徨うことになる。日本人居留地を見つけるが、証明書無しでは入れてもらうことすらできない。
『少年の一人が急に顔をあげて叫んだ
「よう、乞食がのぞいとるぞう!」
そう言うなり、まるめた泥を投げつけてくる。肘で顔をおおって、久三も叫び返した。
「日本人だぞ、ばか、日本人だぞ!・・・・・・」
「乞食だよう!」とべつの子供が家にむかって大声をあげた。「日本人があんなに黒い顔をしているもんか。」窓から子供の母親らしい顔がのぞいて消えた。久三は叫びつづける。戸が開いて、二人の子供を呼びもどし、音たてて閉まった。路地を駆けてくる重い靴音がした。久三が塀をすべり降りたのと同時に、兵隊が角をまがって駆けよってきた。今度は本気で腹をたてているらしかった。久三は片足ではねあがり、すばやく逃げだした。罵声と小石が、うしろから耳元をかすめた。』
ようやく話を聞いてくれる日本人に出会った久三は、日本に向かう汽船に乗せてもらえる。船は故郷の日本に辿り着くが、無法者の集まりである船員たちは久三を船から降ろすつもりはなかった。狭い間隙に押し込められた久三の隣では、久木久三を騙って先に搭乗しており、船員たちから拷問を受けて気が狂った高が譫言を言っている。
『「いや、大砲だ、・・・・・・戦争がはじまったんだな・・・・・・みろ、やっぱりアメリカとソ連がやりだしたんだ・・・・・・へへ・・・・・・私はね、久木久三というものだがね・・・・・・実をいうと、あんた・・・・・・実は、私は、主席大統領なんでね・・・・・・分るかね?・・・・・・亡命政府の大統領なのさ・・・・・・」』
正面にあるざらざらした赤い鉄板の向こうには故郷の日本がある。久三はけもののように吠えながら、拳が砕けるのもかまわず鉄肌を殴り続けた。知人・親戚は一人もなく、一度も足を踏み入れたことのない故郷を切望して。
岩波文庫「けものたちは故郷をめざす」
存在の分析〈アビダルマ〉 仏教の思想2
ブッダは、自らが教える真理を「ダルマ(法)」という語で呼んだ。「アビダルマ(対法)」とは、ダルマに対する学習・研究を意味する。
ブッダ没後、学僧たちは数多くの部派・学派に分裂しながらも、ブッダの教えを1つの思想体系にまとめあげる努力をした。この努力およびそこから生み出された種々の著作を、総じてアビダルマと呼ぶ。この書が取り扱うのは、その中でも一番著名な、世親(ヴァスバンドゥ)による『倶舎論(アビダルマ・コーシャ)』である。仏教史上もっとも偉大な学者・思想家の一人とされる世親は、アビダルマ論書の完成態と呼ばれる倶舎論を記したばかりでなく、その後の大乗仏教の瑜伽唯識学説の唱道者でもある。小乗仏教から大乗仏教への橋渡し役をした人物だ。
アビダルマは、仏教の煩瑣哲学であると評される。僧侶の中では「唯識三年、倶舎八年」という言葉があるくらいだ。倶舎を学ぶのには八年かかり、唯識を学ぶのにはさらに三年かかるという意味である。存在の要素であるダルマを五位七十五法に分類する倶舎論は複雑・難解を極める。しかし、決して形而上学の知的戯れとして作られたものではない。倶舎論の冒頭には、こう記されている。
『「あらゆるしかたで、すべての闇を消滅し、輪廻の泥沼から人びとを救い出す真実の師(ブッダ)に心からなる敬意を表しつつ、アビダルマ・コーシャ(アビダルマの庫)を私は説こう」
ーーー「ダルマを正しく吟味分別すること以外に、煩悩をしずめるためのすぐれた方法はない。そして煩悩によって世の人びとは、輪廻転生しつつ生死の海を漂う」』
煩悩をしずめて輪廻の泥沼から人びとを救い出す。そのためにはダルマを吟味分別するしかない。この後に膨大な宗派に分裂していく仏教の、最も根底的な教えがここにあるのだ。
知恵と慈悲〈ブッダ〉 仏教の思想1
仏教の思想は、昭和四十年代に角川書店から刊行された全十二巻に及ぶシリーズものであり、現在は角川ソフィア文庫で手に入れることができる。
四巻ごとにインド篇・中国篇・日本篇と分かれている。企画者は哲学者であり、第一部で仏教学者がテーマとなる思想の概論を担当、二部で仏教学者と哲学者が対談し、三部では哲学者が西洋哲学との対比から仏教思想を考察する形式が全巻で共通となる。宗教である仏教を思想として捉えなおすところに特徴がある。
第一巻は知恵と慈悲、仏教の教祖ブッダ・ゴータマの思想に焦点を当てている。日本において、仏教は中国を通じて伝わり、その後日本で独自の変化を遂げてきた。いわゆる原始仏教、ブッダの元々の教えそのものに触れてみる試みが本書ではなされている。
仏教学者の増谷文雄は、ブッダには二つの顔があると考える。思想家としての顔と、宗教者すなわち伝道者としての顔である。菩提樹のもとに座して悟りを開いた思想家のブッダは、正覚者の孤独を味わった。自己の中で悟り得たものを、次は人々の前で表現することに力を傾けるようになったのだ。
では、悟りを得るためには何が必要か。実践にあたってブッダが唱えたのは、四聖諦(四つの聖なる命題)であった。
曰く、
一「こは苦なり」
二「こは苦の生起なり」
三「こは苦の滅尽なり」
四「こは苦の滅尽にいたる道なり」
第一の命題は、我々の不安を意味する。永遠というものが存在せず、全てが無常であることから、我々は不安を感じる。
第二の命題は、その不安が何から生じるか。ブッダはこれを「渇愛(激しい欲望のいとなみ)」とする。所有欲・愛欲など、激しすぎる欲望によって人は不安になる。
第三の命題は、その不安を滅する方策となる。第二の命題から明らかなように、不安の要因となる渇愛を滅すれば、不安もまた滅することとなる。
第四の命題は、不安を滅する実践方法のことだ。その方法を、ブッダは「中道」という言葉で表す。「二つの極端を去って中道にたつ」。激しい欲望を捨て去るために、極端な禁欲主義にたつのではなく、あくまで中道にたつことが肝要であるという教えだ。これが仏教でいう、「聖なる八つの道」正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定のことである。つまり、正しく物事を捉え、正しく思考し、正しく行動せよという教えとなる。
ブッダは死後の世界については語らなかった。キリストやソクラテスの激烈な死とは異なり、ブッダは安らかに死の床に横たわり、弟子たちに次の偈を説いて静かに死んでいった。
一切諸衆生 皆随有生死
我今亦生死 而不随於有
一切造作行 我今欲棄捨
すべて生きとし生けるものには生死がある。私にもまた生死があり、したがっていつまでも存在していることはできない。一切のことを、私は今捨てたいと思います。
極端なやり方で自らの命を捨てるようなことはしないが、生に執着することもない。これが中道である。
芥川龍之介「疑惑」
講演のために岐阜県下の大垣町に滞在する私は、ある夜、不気味な男の訪問を受ける。自分の身の上話を聞いてほしいとの頼みだ。
中村玄道と名乗る男は、妻と二人で暮らしていた。明治二十四年の濃尾の大地震の時、家が倒壊し、妻の下半身が梁の下敷きとなってしまう。なんとか助け出そうとするが、どうにも仕様がない。迫りくる火の手に焼き殺されるのを気の毒に思った玄道は、妻の頭を一思いに瓦で叩き割る。
周りに同情され、再婚の縁談さえ持ちかけられる玄道だが、彼の頭にはある疑惑が浮かんでくる。彼は妻を内心憎んでいたのだ。妻は肉体的に、ぼやかされてはいるがおそらくは性的な欠陥を抱えた女性だった。火に焼かれることを気の毒に思って殺したのではなく、殺すために殺したのではないか。この疑惑に苛まれていた玄道は、同僚から、あの大地震で生き残った女性の話を聞いてしまう。彼女は妻と同じように梁の下敷きとなったが、火事で梁が焼け折れて一命を取りとめたのだ。
もはや自己弁護が不可能となった玄道は、婚約者の前にひれ伏してこう叫ぶ。『私は人殺しです。極重悪の罪人です。』
中村玄道は一部始終を話し終えると、口元に微笑を浮かべながら言う。
『「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、ただ一つお耳に入れておきたいのは、当日限り私は狂人という名前を負わされて、憐れむべき余生を送らなければならなくなったことでございます。果たして私が狂人かどうか、そのようなことは一切先生のご判断にお任せいたしましょう。しかしたとえ狂人でございましても、私を狂人にいたしたものは、やはりわれわれ人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。その怪物がおりますかぎり、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。――とまあ私は考えておるのでございますが、いかがなものでございましょう」』
フリードリヒ・ニーチェは、その著書善悪の彼岸でこう書いている。
『怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。』(146節 木場深定訳)
玄道は自らの深淵を覗き込んでしまった。
角川文庫「舞踏会・蜜柑」収録
フォークナー「アブサロム、アブサロム!」
アーネスト・ヘミングウェイとウィリアム・フォークナー。共にアメリカのロストジェネレーション世代を代表する作家である。
ヘミングウェイは記者として第一次世界大戦・スペイン内戦に積極的に関わった。世界中を飛び回り、その経験を下地に小説を書いた。外へ、外へと意識を向けた作家だった。対してフォークナーはアメリカ南部に生まれ、そこからほとんど出ることがなかった。そしてひたすらにアメリカ南部を書いた。ほとんどの小説が、自らの故郷をモデルにした架空の町を舞台にしたものだった。そこで、アメリカ南部の差別と暴力をひたすらに書いた。内へ、内へと意識を向けた作家だったのだ。
「アブサロム、アブサロム!」はアメリカ南部に突然現れたトマス・サトペンの成りあがりと没落を、複数の語り手が重層的に積み上げる構成である。各語り手によって記憶違いや未知の話・それぞれの偏見もあり、フォークナーの別作品「響きと怒り」の登場人物でもあるクエンティン・コンプソンがハーバード大のルームメイトシュリーブとともにこの物語を再解釈・再構成していき、語りながら自らも半世紀前のその時代に生きているかのような錯覚に陥っていく。
小説のほぼ全てを構成する、それぞれの人物による語りは、時系列も焦点を当てる人物もバラバラで、個人の抱く怨念や思い込みによって語られる内容がかなり異なり、限定されたものとなる。読者はバラバラのピースが次第に組み合わされていくのを楽しみながら読み進めることとなる。これはフォークナーが長編で得意とした手段だ。
クエンティンの故郷の呪われた歴史を共に解き明かしたカナダ出身のシュリーブは、クエンティンに最後に尋ねる。
『「…ところで、もう一つだけ、僕から君に訊きたいことがあるんだ。なぜ君は南部を憎んでいるの?」
「憎んでなんかいないさ」とクエンティンは、素早く、直ちに、即座に言った、「憎んでなんかいるものか」と彼は言った。憎んでなんかいない と彼は冷気の中で、ニューイングランドの鉄のような暗闇の中で喘ぎながら考えていた、憎んではいない。憎んでなんかいない!憎んでなんかいるものか!憎んでなんかいるものか!』
フォークナーは自らの故郷の暗部をひたすらに描いた。その排他性、保守性、南北戦争の敗北、奴隷制、そして黒人差別。しかし彼は死ぬまでそこに住み続けた。フォークナーはアメリカ南部を決して憎んでなどいなかったのだ。
岩波文庫「アブサロム、アブサロム!」藤平育子訳
内田百閒「ノラや」
夏目漱石を師とし、陸軍士官学校や法政大学でドイツ語教授を務めるかたわら、幻想的な小説を得意とした内田百閒。気難しく厳格なイメージの強い百閒だが、七十歳間際に書かれたこの随筆は、かわいがっていた野良猫のノラが失踪して、人目も憚らずに毎日ボロボロ泣いている自分を書いたものだ。
百閒は元々猫好きではなく、家によく来ていた野良猫を世話してやっていたら、次第に愛着がわいて家に招き入れてやった。
『生の小あぢの筒切りのお皿の横に牛乳の壺が置いてある。彼は大概あぢの方を先に食べて、それから後口に牛乳を飲む。一合十五円の普通の牛乳では気に入らない。どうかすると横を向いてしまふ。二十一円のグワンジイ牛乳ならいつもよろこんで飲む。生意気な猫だと云いながら、ついつい猫のご機嫌を取る。』
そのノラがある日失踪する。垣根をくぐり木賊の繁みの中を抜けて出ていき、二度と帰らなかった。百閒は「ノラや、ノラや」と毎日泣き暮らし、家のあらゆるものが目に入るたびに、ノラとの触れ合いが思い出され泣き崩れる。迷い猫のチラシを新聞の折り込み広告に頼み、外国人宅に迷い込んでいる可能性も考えて、外字新聞用に英語の広告も作る。帰って来たノラが風呂場の蓋の上に敷いた座布団の上にまた寝られるようにと、毎日入っていた風呂にも二十日間入らない。ようやく座布団を片付けるが、風呂蓋に顔を押し付けて「ノラや、ノラや」と涙が止まらない。
しばらくして後、ノラによく似たこれも野良猫のクルツをまた家に招き入れる。五年ほどかわいがられたようだが、最後は病気で死んでしまう。ほとんど危篤状態だった十日間は、家族総出でつきっきりの看病をしたようだ。かわいそうでたまらずに毎日泣いていた百閒は、『猫は人を悲しませる為に人生に割り込んでゐるのか』と思い、二度と猫を飼うことはなかった。
『寒い風の吹く晩などに、門の扉が擦れ合って、軋む音がすると、私はひやりとする。そこいらに捨てられた子猫が、寒くて腹がへつて、ヒイヒイ泣いてゐるのであつたら、どうしよう。ほつておけば死んでしまふ。家に入れてやれば又ノラ、クルの苦労を繰り返す。子猫ではない、風の音だつた事を確めてから、ほつとする。』
中公文庫「ノラや」
芥川龍之介「南京の基督」
貧しさのために買春で生計を立てる十五歳の少女は、五歳で洗礼を受けた耶蘇教徒であった。梅毒を病んで客を取れず、「誰かに移せば治る」という同輩からの迷信じみた忠告をにも、耳を貸さずに祈禱を続けていた。
客を取れずぼんやりと過ごしていたある日、東洋人か西洋人か見分けのつかない外国人が訪れる。少女はその泥酔した外国人の顔に既視感を覚え、彼こそは耶蘇基督ではないかと思い、身を任せる。翌朝目覚めるとすでに外国人はいなくなっており、少女の梅毒は完治していた。『「ではあの人が基督様だったのだ」』少女は跪いて熱心な祈禱を捧げた。
実際には、その外国人はただの英字新聞の通信員で、南京で売春婦を買って寝ている間に金を払わず逃げたことを言いふらしていた。彼はその後、梅毒を病んで発狂したらしい。
少女の梅毒が本当に完治したのか、一時的に症状がおさまっているのかどうかはわからない。確かなのは、少女が奇跡を疑いなく信じており、これからも祈禱を絶やすことがないということだけだ。
角川文庫「杜子春」収録