小説というものは通常、読者を想定して書かれるものである。したがって、その物語について何の事前情報も持っていない、第三者としての読者に向けて書かれていく。 しかしこの小説は、書き手が双生児の妹に向けて書いた、自分たちの出生地の神話と歴史につい…
親友の久米正雄に託された遺稿である。或阿呆とは芥川自身のことだ。序文にはこうある。 『…僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。ただ僕のごとき悪夫、悪子、悪親を持ったものたちをいかにもきのどくに感じている。で…
精神病院の患者第二十三号は、会う人みなに同じ話をする。曰く、登山の途中で河童の世界に迷い込み、そこで生活をしていたと。 語りは非常に具体的である。河童の生物的な特徴から始まり、彼らの日常生活、さらには知的文化の発展にまで及んでいる。 河童の…
家の主人である堀越玄鶴は肺結核にかかり、看護婦を付き添いに、離れで床に就いている。茶の間の隣で、腰が抜けてこちらもやはり床に就いている姑のお鳥、そして娘と娘婿、その子供と女中が共に暮らしている。 静かで、どこか陰鬱なこの家に、玄鶴が囲ってお…
三島由紀夫は祖母の部屋で育てられた。病弱な祖母は、この孫を外に出すのを嫌がり、自分の枕元で音をたてずに静かにさせておいたのだ。短編の前半は、この当時の母親の手記からの引用で占められている。 『「朝から午後まで、うす暗い八畳の祖母の病室にとじ…
『永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!いったいこの…
刑務所で同室となった、同性愛者モリーナと革命家バレンティンの会話がほとんどを占めている。その会話も、モリーナが覚えている映画のストーリーをバレンティンに聞かせるというものだ。地の文は時折挿入される報告書と、注釈しかない。注釈は、本編のスト…
サンソン家は、六代にわたってパリの死刑執行人(ムッシュー・ド・パリ)を務めた。本書では特に四代目、「大サンソン」と呼ばれたシャルル・アンリ・サンソンについて書かれている。 死刑の執行は、法に基づき、国王の委任を受けてなされる。処刑人は世襲で…
タイトルのHHhHは「Himmlers Hirn heißt Heydrich」の頭文字をとったものだそうだ。意味は「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」。 ハインリヒ・ヒムラーはナチス親衛隊(SS)の全国指導者である。親衛隊内部には親衛隊保安部(SD)がおかれてお…
『温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。 水は井桁の上に凸面をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方に流れ落ちるのである。 青い美しい苔が井桁の外を掩うている。 夏の朝である。』 一文一文が短く、簡潔で力強い。漢…
『夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持…
フランス貴族たちの社交界を舞台とした戯曲。 主人公のアルセストは社交界を憎んでいた。本人の前ではお世辞を並べ立て、いなくなると悪評の噂に悪口三昧…。そんな俗物たちにうんざりしていたアルセストだが、なぜかそれらの中心人物である未亡人セリメーヌ…
あとがきには最終戦争SFと書かれている。終末SFという言い方もあるが、要するに世界の終わりを描いたものだ。このテーマで書かれた小説は無数にあるのではないか。それほど書きやすいテーマであるのだが、そこは筒井康隆である。ありきたりな内容になる…
ジョージ・オーウェルが、パリとロンドンの貧民街での生活を綴ったルポルタージュ文学である。 オーウェルは努めて客観的にこの経験を記録している。そのため、貧民に対する考えなどは時折語られているが、自身の境遇などはほとんど書かれていない。なのでオ…
耽美主義をかざして文壇にユニークな地位をきずいた流行作家、美倉洋介。彼は生まれながらの異常性欲に苦しめられていた。 『この薄汚れた太平楽に浸って何にふるい立てというのだ ショパンは祖国の危機を叫び ルネ・クレマンはレジスタンスに加わった いま…
安部公房の戯曲。冒頭に本人の作詞による「友達のブルース」の楽譜が載っている。 『夜の都会は 糸がちぎれた首飾り あちらこちらに とび散って あたためてくれたあの胸は どこへ行ってしまった 迷いっ子 迷いっ子』 一人暮らしの男のもとに、九人家族が闖入…
三島由紀夫は評論「ジャン・ジュネ」でこのように書いている。 『サルトルが、ジュネは悪について書いたのではなく、悪として書いた、と言っているのは正しい。』 ジュネはパリで娼婦の腹から生まれた。父親はわからず、母親からも生後七カ月で捨てられた。…
まえがきにこうある。 『…かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。…』 この「彼岸過迄」はこの構想に基づく長篇であ…
ごく短い短編である。 午前二時ごろのカフェでは、テラスで一人耳の聞こえない老人がブランデーを飲んでいる。ウェイターの一人は、早く店じまいをしたいがために、老人のおかわりを断って帰らせてしまう。年上のウェイターがそれを非難する。 『「おれも、…
鏡の魅力に取りつかれた男が、庭に実験室を建築する。両親を病気で亡くして莫大な財産を受け継ぎ、男はそこで異様な実験を行い始める。 望遠鏡で人家の中を盗み見したり、虫を傷つけて呻くさまを顕微鏡で眺めるだけでは飽き足らず、上下左右を鏡の一枚板で張…
巻頭にベントゥーラ一族の一覧がある。49人載っており、これに別荘の使用人たち、周囲に住む原住民を合わせると、登場人物は莫大な量になる。この時点で普通の小説ではない。 別荘というのは、ベントゥーラ一族の所有する別荘を指す。この周囲の土地は、上…
認知症の老人を語り手にした短編である。このような調子で話が進んでいく。 『食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。わしがどん…
太宰治の短編である。書き出しは、『子供より親が大事、と思いたい。』。 自らの家庭における夫婦喧嘩を材にしたものだが、大声で罵りあうなどの場面はない。妻が呟いた嫌味に対して、太宰治は自分がいかに気が小さくて、喧嘩というものに向いてないかを書き…
夏目漱石の私小説である。 門下生の三重吉が、漱石に文鳥を飼うよう勧める。金を渡して、籠と一緒に買ってきてもらい、飼い方を聞くとどうも大変そうだ。千代千代(チヨチヨ)と鳴いて可愛いので、水と餌を毎日取り替えてやるが、段々と世話を怠って、下女に…
大戦末期、感化院(今でいう少年院)の院児たちは空爆を避けて、山の奥の僻村に集団疎開させられる。そこでは疫病が流行し始め、院児の一人の死亡をきっかけに村人は、院児たちを置いて隣の村に避難してしまう。唯一の交通手段であるトロッコの軌道を遮断さ…
霊界にいる死者と通信することができる機械を発明した男が、人を集めたホールで実際に死んだ妻と話をし始める。デモンストレーションを終えた男はその場で自殺し、機械のマイクを通して霊界から「死というのは素晴らしい。肉体から解放された気分だ」と言う…